いろいろな宗教について(5)

10)「ゴッド ブレス アメリカ」という言葉 」

 

 これはオバマ時代のアメリカの大統領選の時の話。

私はアメリカの政治に、まったく文句をつける気はない。政治家などというものは、どこの国でも自意識の塊で、エゴの権化だということを知っている。

 

 しかし私はかの国の大統領予備選で、金髪碧眼の女が演説の最後に金切り声で叫ぶ「ゴッド ブレス アメリカ」という言葉にうんざりしていた。私は別に彼女に個人的好悪の感情を持っていない。対抗馬の黒人に特別好意も持っていない。白くたって黒くたって、どっちにしたって、アメリカを背負って立つ人間のやることは変わりはしないと思っている。

 

 彼らは常に「ゴッド ブレス オンリー アメリカ」と叫んできた。そんなこと今に始まったことではない。しかし私は個人的感情でもって「ゴッド ブレス アメリカ」というあの叫びを聞くと、突然イライラが止まらなくなるんだから仕様がない。

 

 昔から、イスラエルは『ヤーヴェ・原存在』という固有名詞ならぬ言葉を固有名詞化し、イスラエルの軍神として、自分たちの民族のみを守る神として崇めてきた。イスラエル以外の民族がどうなろうとかまわなかった。むしろ、イスラエルの軍神『ヤーヴェ』は自分たちの民族の存続のために、他民族を滅ぼす神であった。彼らにとって、イスラエル以外のすべてが敵であった。彼らは敵とは排除するべきものと思ってきた。

 

 キリストはそのイスラエル民族から生まれて、「敵を愛せ」と説いた男だ。ヤーヴェは全人類の父であると説いた。そしてそのために、彼はぶち殺された。このことを知っているキリスト教徒は実のことを言うとほとんどいない。

 

 そのキリストを「神の子」と崇める集団を、人は「キリスト教徒」という。その「神の子」を奉じる世界の政治的区分を、世は「キリスト教陣営」と呼ぶ。彼らが集団でもって、自分たちが奉じるキリストを誤解していることを、誰も指摘しない。

 

 後にキリストと呼ばれたナザレのイエスはただの一度も、自分は「この世の王だ」と言ったことはない。彼は一度もこの世の権力にあこがれたことはない。彼は一度も自分の名によって、敵を殺せといったことはない。しかし、キリスト教陣営の指導者は、専門の宗教家に至るまで、キリストを旗印に、この世の権力を追及する。

 

 今、「キリスト教陣営」の代表格のアメリカは、イスラエルの軍神をアメリカの軍神として心に抱いている。「敵」を見たら「撃ちてしやまむ」の精神で、愛のかけらのひとつもなく、「ゴッド ブレス アメリカ」と叫びながら。

 

 あのころ、私はマザーテレサ関係の本を読み漁り、ネット販売のDVDなどを買い込んで、マザーテレサの人となりを眺めている。あるネット上の人物と一緒に、見たかったのだが、どうも、これは無理だ、と判断した。扱い方の所為もあるのだが、この本はあまりにカトリックだ。

 

 これじゃあ、一般人に理解不可能だと思った。「一般人」という人種があるわけではないけれど、要するに、カトリックのことなど何も知らない、イエス様になんか、ある意味じゃ、反感を持っている、まして、カトリックの修道女の生活などに、まるで知識も興味もない人にとって、猫に犬語を話して聞かせるようなものだ。

 

 私は赤ん坊のときに、洗礼を授けられた、うんざりするほど、カトリックまみれの家庭に育ったカトリック信者で、どぎつく異端的なことを書いているわりには、反カトリック的じゃない。

 

 映画化された「マザーテレサ」を嫌って、足立区の図書館の本に紹介された彼女の実録、「マザーテレサと其の世界」というDVDを買い込んだ。しかも、楽天やアマゾンからでなく女子パウロ会から直接買った。この会はいい仕事をしているけれど、でも、やっぱりカトリック修道会の臭みの消えない解説の仕方で、マザーテレサの人となりを紹介していた。この臭みは、生姜でも擦り込まないと消えやしない。

 

 ただしこの本に書いてあることは、私には、よくわかる。よくうなずける。うっかりすると、私は彼女の世界に引きずり込まれて、涙まで出してしまいそうだ。DVDを見ていたら、マザーテレサの中に、イエス様を見ているみたいに、それはそれは現実感を伴って、信仰のほのおが、めらめらと立ち昇る。そんな感覚さえ味わえるDVDなのだ。

 

 でも、これはいくらなんでも、カトリック無関係の人には無理だ。無関係の人でも、この本に描かれている彼女本人を見たら、彼女の本体がひょっとしてイエス様ではないかと感じるだろうと思えるほど、「理解」はしなくても、「感動」するだろう。でも、これはDVDだ。DVDは客観的に理知的に批判的に、反感を持ってでも、見ることはできる。「理解」できないものは切り捨てることもできる。彼女のメッセージを自分の心に受け取るには、こんなカトリック的に構成されたDVDじゃだめだ。」なんていう感想を持った。

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 マザーテレサがものを語るとき、唇にそっと十字を切るという。自分が語るのでなく、後は聖霊に語るのを任せよう、という彼女の絶対的な信頼の表れなのだ。そのこと、私は自然に納得する。私はまさに聖霊が語っているに違いないと感じる「人間の言葉」を聞き取りながら生きてきたから。あれは、人間じゃない、あの人は聖霊の言葉を伝えるために、送られてきた人なのだ。そういう体験を自らし続けてきた人生だったから、私は、マザーテレサの其の一瞬の動作を見逃さなかったDVDの製作者の視点を、正しいと感じる心を持っている。

 

 しかし、一般人は、この動作を、あほらしいおまじないと取るだろう。残念だけど、そう見えることを、そうではないと、実証することはできない。それを捉えるのは、理性や知性でなくて、赤ん坊のときから、確実に捕らえていたある存在を感じる感性なのだから。そう。無意識状態で、洗礼を授けられた、赤ん坊のときから、である。

 

 私は知性や理性や人間の能力や人間の自由意志というものを極めて重んじるプロテスタントの人々が、カトリックの幼児洗礼というものを「無効」だとする理由を知っている。しかし、私はあの感性は無意識のときの幼児洗礼でないと、身につかないと感じている。自分の意思で信仰を持ったと考える、意思の信者の言葉を聴いて、いつも、私が感じるむなしさを払拭できない。

 

 ヤーヴェは人間の理性が捉えないと存在しないわけじゃない。ヤーヴェは理性や意思で持って、「理由をつけて」信仰しないと、捉えられない存在じゃない。むしろ、理性や知性や選択能力は、ヤーヴェに出会うための障害でさえある。其のことを、私は知っている。

 

 私にも、与えられた知性や理性や思索力がある。しかし、強固な信念というものは、知性や理性や、思索力で形成されたものではないようだと、私は感じている。

 

 マザーテレサがいつも見つめていたのは、自分でもなく、「貧民」と一括して名づけられたどうでもいい人間でもなかった。彼女が人間を見るとき、人間の中に存在するイエス様を見つめていた。裸で寒いイエス様を、飢えて路傍をさまようイエス様を、ライに犯されて手足がなくなり、目が見えなくなったイエス様を、親に捨てられてごみだめで泣く赤ん坊のイエス様を、それらの人々を「私」と呼んだイエス様を思い出しながら、彼女は、それらの「私」を拝しながら助けた。あの感性は、自分を無にした、イエス様に対する深い信頼がなければ、ありえない。

いろいろな宗教について(4)

8)「天国と地獄の入場券」 

 イエス様によると、天国に行く入場券をもらえるのは、(洗礼を受けていなくても)「私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたもの」で、地獄に行くのは、(洗礼を受けていても)「私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せてくれず、病気のときに見舞ってくれず、牢にいたときに訪ねてくれなかったもの」らしい。

 

「私」というのは、日ごろから「苦しみを受け、差別を受け、空腹に耐え、病み衰え、挙句の果てに罪を犯し、刑罰を受けて牢につながれた」人々らしい。

 

 つまり、経済大国日本の中で、メタボリックを恐れながらも毎日たらふく食べ、のんだくれ、冷暖房完備の部屋の中で、パソコンお宅になって生きる心配もせず、他人の日記に暴言なんかを書き込んだりする「一般の善良な人々」には無関係な人々、町の隙っこにうずくまっているような、あたりに臭気を放って避けたいような、そういう人々のことらしい。

 

 イエス様はそういう人々を「私」という。その「私」を受け入れるものが天国に行き、受け入れないものは地獄行きなんだと^^。

 

 So-calledクリスチャンは、二言目には、イエス様を信じる信じるというけれど、いったい何を信じているのか、私にはわからない。処女マリアから生まれたイエス様か、奇跡を起こすイエス様か、十字架上で死んで3日目によみがえったイエス様か、栄光に包まれ、神の子として「天の玉座」に座っているイエス様か、そんなところだろうか。その「きらきらした世界」に行くためには頭に水をかけられれば良いとか、水をかけられてそういう、「実生活にはどうでもいいこと」を信じれば救われるとか、そう思っているのだろうか。

 

 私には、聖書にどんな表現で描かれていようとも、天国や地獄を実態として把握することなどできない。

 

 そういう世界を想定する前に、「誰かが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる」ような体験を一度でもして、そのとき心に何を感じるか、一度でも体験してみるが良い。

 

  「誰かが飢えていた時に食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のときに見舞わず、牢にいたときに訪ねない」、ましてや、死刑囚の刑を執行することに満足を感じる法務大臣のような心が、どのようなものかを想像してみるが良い。

 

おのずと天国とは何か、地獄とは何か、がわかるだろう。

 

9)「象と盲人のたとえ」へのコメント 

 かつて私があるサイトに書いた既述の「象と盲人のたとえ」を読んだ読者から、コメントのメールが来たので、一応紹介がてら私の意見を書いたのだ。実はこの「象と盲人のたとえ」は、ある死刑囚に対する罵詈雑言の数々に対する私の意見だった。

 

 何年前のことだったか、死刑を求刑されたある容疑者の事件に対する私の考えを「象と盲人のたとえ」を引用して発表した。それに対して膨大な量の罵詈雑言のコメントが殺到し、犯人と無関係の日記を書いた本人である私の意見はかき消されて収拾がつかなくなった。それでもとの自分の日記ごと削除せざるを得なくなり、あとで自分の考えをシリーズで書いておこうと思って別のブログに書き始めたという経緯がある。

 

 だから、シリーズが終わるまで、そのサイトでもコメント拒否の設定にした。ただ、罵詈雑言のコメントの中で、まじめなコメントを書いてくださった一人の方の意見を発表して、同時に私のそれに対する自分の考えを書いた。

 

★読者の意見「マザー・テレサの苦悩」

 「マザー・テレサ」と呼ばれ、世界に知られたカトリック教会修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いに基づき2003年に列福された。Tおころで、修道女テレサが亡くなって10年目に、彼女の生前の書簡内容が明らかになった。

 それによると、修道女テレサは下記のように記している。

「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶の告白と、「私は孤独で暗闇の中に生きている」という言葉がある。

 この言葉によって、西側メディアは「テレサ、信仰への懐疑」などと、センセーショナルな見出しを付けて報じた。ちなみに、彼女は生前、その書簡を燃やしてほしいと願っていたが、どのような経緯からか燃やされず、このように彼女の内面の声が明らかになったようだ。

 マザー・テレサの告白は、キリストに信仰を持つ者の歴史では決して珍しいものではない。むしろ、程度の差こそあれ、神を信じる多くのキリスト者の信仰生活の中で見られる葛藤だ。

新約聖書のなかでパウロでさえ言っている。

パウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の体には別の律法があって、私の心の法則に対して闘いをいどみ、私を虜にしているのを見る。私は、なんという惨めな人間なのだろう」(ローマ人への手紙7章22節~24節)と告白している。"パウロの嘆き"と呼ばれる内容だ。

 パウロの場合、自身の神への信仰の弱さを嘆いたわけだが、マザー・テレサの告白の場合、神、イエスを求めても答えを得ることが出来ない、"神の沈黙"への嘆きともいえる。

 コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者の姿に接し、テレサには「なぜ、神は彼らを見捨てるのか」「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の疑問を持った。

それに対し、神、イエスは何も答えてくれない。このような状況下で神、イエスへのかすかな疑いが心の中で疼く。マザー・テレサは生涯、神への信頼と懐疑の間を揺れ動いていたのだろうか。

 神が愛ならば、愛の神がなぜ、自身の息子、娘の病気、戦争、悲惨な状況に直接干渉して、解決しないのか。その「神の不在」を理由に、神から背を向けていった人々は過去、少なくなかったはずだ。

 

マザー・テレサの告白は、「神の不在」に関する説明が現代のキリスト教神学では致命的に欠落していること、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活がもはや神の願いとは一致しなくなったこと等を、端的に示している。」

 

★上記のコメントに対する私の考え

 このコメントは、マザーテレサの手紙の紹介であって、私の読者そのものコメントとは言えないけれど、「人間」マザーテレサの本来の姿を知る上で、大切なコメントだと思う。

 ところで、私はどこかで、発表したことがあるけれど、カトリック教会において、なくなった信者を聖人の位につけたり福者の称号を送ったりすることが嫌いなのだ。どんなに立派な人物でも、人間は人間であって、欠点を抱え、苦悩を抱えて生きて死ぬ。

 その人物の人生をいつくしんで受け取るのはヤーヴェ(原存在の意味、法と呼んでも可)だけであって、生き残った人間が彼女を聖人呼ばわりしたりして、崇め、ほとんど新しい偶像のごとく拝むのは、彼女にとって、迷惑な話だろうと思うから。

 残されたものは、故人の遺業を自分のできる方法で継げばよく、故人を祭壇に乗せて、自分とは関係のない「聖人」だから彼女はああいう生き方ができたのだ、自分は「拝む人」、彼女は「拝まれる人」と決めてしまうなら、自分の弱さと戦いながら、生きて、苦悩し、生を全うした彼女の人生にどれだけの意味があったのか、むしろ、聖人扱いされたテレサは気の毒である。

 

 同じことが、聖母マリアに関しても言えるのだ。彼女は処女で子を生んだ無原罪の超人ということになっている。ヤーヴェ以外に真理はない、ヤーヴェ以外に絶対と呼べるものがない、ヤーヴェ以外はすべて無明の被存在であるときに、罪の闇の苦悩もなく、処女で子を産む超人が、なぜ信仰の対象、尊敬の対象になりうるのか、私にはわからない。生きて、苦悩し、自己の闇と戦い、生を全うした人物ではないのなら、人間はどうやって、彼女を真似ればいいのだろう。などと思う。

 

 その意味で、これだけ自己の矛盾と闘って苦しんだマザーテレサを「我々一般人」とは違う存在である「聖人」として祭り上げて、祭壇上に上げてしまおうとするローマ本部の陰謀が、この手紙で崩れることを、願うものである。

いろいろな宗教について(1)

 

「印哲少年KN君のこと」

1)印哲少年KN君のこと 

 

私は昔、結婚して国外に行くまで高校教師をやっていた。小中高一貫校だったが、規模の小さい個性的な学校で、寮があった所為で、日本中、世界中からの生徒を受け入れていた。決して進学校的なイメージのある学校ではない。あらゆる偏差値の、あらゆる階層の子供が来ていた。

 

そこで、KN君という一人の少年と出会った。少年は、そういう個性的な学校の中でさえ、突出して変人奇人といわれていた。私はその少年の担任になったことがない。彼の教科を担当した先生方が、口をそろえて彼の行動も言動も意味がわからない変な奴だと言っていた。

 

特に国語の教師は、彼の作文に頭を悩ましていた。「あの子の作文は何を言いたいのかさっぱり分からない」というのである。勢い、教師は彼の漢字力だの、文字の書き順だの、所定の読解力だのの点をつけただけで、それ以外は「評価不能」だったということで、当然のことながら良い成績は取れなかった。

 

私は彼が中学2年のとき1年間、国語を担当した。かれは「点数」という価値観から見れば、どの教師も言う通り、まさに「評価不能」であった。しかし私は彼の作文を読んだ時に、多分、彼は、「私が読んだことのない本を読んでいるぞ」と感じたのだ。

 

私は彼を呼び、面白い作文だけど、いろいろわからないことがある。君は一体どんな本を読んで、こういう作文を書くに至ったのか、と、聞いてみた。

 

彼は答えた。「バカヴァットギーターです。インテツです。」

 

「なぬ?」を私は思った。私は「インテツ」ということばに慣れていなかったから、それがインド哲学だということを理解するまで、数分かかった。

 

私には、彼が読んだという「バカヴァットギーター」には聞き覚えがあった。自分の書庫に、東洋思想集があって、孔子老子は読んだけれど、「バカヴァットギーター」が代表するインド哲学には触れていなかった。

 

そうか。読んでみよう。私は自分の家の書庫だけでなく、本屋に行って、手当たりしだいインド哲学の解説書を探した。インドの神話も民話も、ウパニシャット哲学も、そのときまとめて初めて触れた。その結果、私は彼の「作文」を理解した。まるで古代文字を解釈するように、私は彼の不思議な世界に入っていった。以後彼は私が彼の担当から外れた後も、自分の作文は担当の国語教師に見せないで、私に見せにくるようになった。

 

のちに彼が高校生になってから、彼は私が顧問を務める演劇部に入ってきて、私と彼との間に特別奇妙な関係ができた。

 

あるたまり場があった。私はもともと思想書が好きだったし、彼も私もお互いに、生きる社会から奇人扱いにされている人間として、こころゆくまでそのたまり場で、宗教、哲学の話をするようになった。

 

もう故人になられたが、当時職を失していた大学の先輩が、私の誘いに乗って同じ学校に勤めるようになって、彼女は自分のアパートをたまり場として提供していたのだ。

 

私は顧問に任命された時、全く演劇のことを知らなかった。なるひとが誰もいないから任命されたにすぎない。ところで、かのたまり場提供者は、昔仕事をしていた学校で演劇を専門的に指導していたので、私は彼女に演劇の指導を乞うた。発声練習から始って、舞台を歩いて観客を見まわすだけの度胸をつける訓練に至るまで、私は彼女から教えてもらった。

 

だから成り行き上、演劇部員の印哲少年を彼女はたまり場に受け入れることになった。そんなわけで彼女の「拠点」にいわゆる「変なの」ばかり集まって、飲み食いしながら、よく彼らの青春につきあった。

 

印哲少年の母親は、これもかなり変人で、どういうわけか私のことが好きだった。何を感じているのか、結婚のための日本脱出時に、わずかに私の人生に関わったこともあり、特に私は記憶していた。それで、私が内戦の末、命からがら日本に帰ってきたときに、連絡を取った唯一の元父兄である。帰国のどさくさで10年ばかり手紙も出さなかったが、初めて個展をやる時に、また彼女のことを思い出し、連絡をとった。なんだか、帰国時に懐かしがってくれたので、うれしかったのだ。

 

かの印哲少年はもう50歳になり、昔から好きだった古代遺跡の発掘をしながら、経済的には細々と、独身をとおして生きているそうである。やっぱり「常識的に」は育っていないらしい。そういう報告を聞いて私は、大いに納得した。

 

ある土曜日、その母親から電話がかかった。日曜日、うちに来るという。なんでも、二年前から気に入っていた絵があって、それを買いたいと言ってきた。

 

なんという「縁」なのだろう。そもそも彼女は、なぜ息子の担任でもなかった私に興味を持ち始め、実に38年間も「縁」を繋いでいるのだろう。なんだか不思議で仕方がない。さしたる理由もわからないから、たぶん「波長」の問題なのだろう。

 

今まで出会った人々の5%ぐらいかなあ、「波長が合う」というだけで私を受け入れ、一度受け入れたら決して忘れることはなかった。一緒に育った5人の兄弟姉妹は、たぶん「波長が合わない」という理由だろう、ただの一人も交流をつないでない。

 

昔の私は自分と「波長が合わなかった」95%との出会いを否定的に見てきた。憎んでいた時もあった。でもいまは、あの95%に鍛えられて、私は5%の珠玉の輝きを見る目を持つようになったと思っている。

 

その珠玉の一人が、今日、私の家に来る。地味な、生まれて一度も化粧などをしたこともない80歳の老女だ。2年前の個展で見た、私の一枚の絵を気に入ってくれた。彼女はその絵を、彼女のコレクションである名高い作家の絵を押しのけてまで、家に飾ってくれるそうだ。

 

そのことの意味…

 

2)「Merry Christmas と Happy Holiday 」

愛読している在米日本人のネッ友のブログに、多民族多宗教国家のアメリカのメディアでは、現在、クリスマスに「Merry Christmas」といわずに「Happy Holiday」というという趣旨のことが書いてあった。

 

で、さらりとそう書いてあっただけで、あまり深いことには触れていなかったが、私の心にいつまでも残る言葉だった。

 

多民族多宗教というお国がら、「メディア」という公共機関みたいなものは、四方八方に気配りが必要なのだろう。よいことだ。

 

日本は、あらゆる国のあらゆる宗教の祭りや行事を、宗教という骨を抜いて形骸だけを受け入れるお国柄だが、聖夜の音楽やサンタクロースのプレゼントや、ピカピカきらきらした飾りやらを、とうの宗教をもつ集団に対してはいかにも無神経にとりいれる。

 

私は一応キリスト教の一派に籍を置いているものだが、日本のこのクリスマス騒ぎが、反吐が出るほど嫌いで、この時期の繁華街を歩くことを避けている。12月26日になると、日本はさっさと金ピカの飾りを捨てて、門松、注連飾り、もういくつ寝るとお正月うぅ~~となる。私はそれを待って浅草を歩く。

 

「アーメン陀仏」とかいって楽しんでいる人物もいて、その言葉がどちらの宗教の徒をも傷つけていることを、言っている本人は知らない。だから、この近頃のアメリカのメディアの気づかいに、少し私は感じてしまった。いいことだ。この宗教抜きのお祭りは、余計な神経を使わなくて済む。信仰を持った人々だけ、それぞれのやり方で、各自正しいと考える儀式を執り行えばいい。

 

キリストを知らないで、「Merry Christmas」もない。日本のクリスマスは若い男女がホテルで楽しむ行事らしいし、それなら確かに「Happy Holiday」だ。

 

本来「お祭り」とは宗教に始まって、人々に浸透すれば「ただの馬鹿騒ぎ」に終わるものらしい。そしてそれはいかにも正しいことだ。特定の宗教は人々に垣根を作る。「ただの馬鹿騒ぎ」に垣根はない。垣根がないことの方が、宗教的にも正しい。

 

そもそもクリスマスだって、もともとイエスの誕生とは関係がない、異教徒の祭りで、キリスト教に改宗した異教徒の機嫌を取って教会側がとりいれたものだ。だいたいイエスがいつ生まれたかなんて、記録がないのだ。イエスが生きて活躍したからにはいつか生まれたんだろう、とりあえず、異教徒の祭りをそれにあてはめちまえ、というわけだった。

 

サンタクロースに至ると、もう、すでにおとぎ話の世界である。あれを子供に信じさせるの信じさせないのと言っているのは大人のゲームであって、「大人がウソつきである」という真理を子供に植え付ける意味では、初期の段階の人生経験として意義があるのみである。

 

私はHappy Holidayが日本にも根付けばいいと思う。だいたい平和の主であるキリストがキリスト教圏の軍神にされてしまって、イスラム圏を攻撃するようなことが「常識」になっている現状で、すべての宗教は一度崩壊する方がいいような気がする。

 

いつも言っているように、本来旧約聖書にでてくる「ヤーヴェ」とは、全宇宙の存在のもとであり、仏教でいう「法」である。自己執着に狂った集団が勝手な名前をつけて、俺だけが正しいと言い合って殺し合うような、そんなちっぽけな存在ではないのだ。

 

キリストは「律法を完成させるためにきた」というからには、「旧約の律法」は「未完成であったのだ。彼はイスラエル民族だけを救うと考えられていた「ヤーヴェ」を「全人類の父」と呼んだ。それをいまだに旧約の未完成の律法を引っ張り出してきて、俺が俺がといいはるなら、イエスが出てきた意味がない。おれだけが正しいとほざいているキリスト教徒は、口が裂けてもイエスの誕生を祝うな。

 

人はすべての垣根を取っ払って、何でもない「休日」を楽しめ。その方が、イエスの精神にかなっている。

 

 

 

 

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