いろいろな宗教について(5)

10)「ゴッド ブレス アメリカ」という言葉 」

 

 これはオバマ時代のアメリカの大統領選の時の話。

私はアメリカの政治に、まったく文句をつける気はない。政治家などというものは、どこの国でも自意識の塊で、エゴの権化だということを知っている。

 

 しかし私はかの国の大統領予備選で、金髪碧眼の女が演説の最後に金切り声で叫ぶ「ゴッド ブレス アメリカ」という言葉にうんざりしていた。私は別に彼女に個人的好悪の感情を持っていない。対抗馬の黒人に特別好意も持っていない。白くたって黒くたって、どっちにしたって、アメリカを背負って立つ人間のやることは変わりはしないと思っている。

 

 彼らは常に「ゴッド ブレス オンリー アメリカ」と叫んできた。そんなこと今に始まったことではない。しかし私は個人的感情でもって「ゴッド ブレス アメリカ」というあの叫びを聞くと、突然イライラが止まらなくなるんだから仕様がない。

 

 昔から、イスラエルは『ヤーヴェ・原存在』という固有名詞ならぬ言葉を固有名詞化し、イスラエルの軍神として、自分たちの民族のみを守る神として崇めてきた。イスラエル以外の民族がどうなろうとかまわなかった。むしろ、イスラエルの軍神『ヤーヴェ』は自分たちの民族の存続のために、他民族を滅ぼす神であった。彼らにとって、イスラエル以外のすべてが敵であった。彼らは敵とは排除するべきものと思ってきた。

 

 キリストはそのイスラエル民族から生まれて、「敵を愛せ」と説いた男だ。ヤーヴェは全人類の父であると説いた。そしてそのために、彼はぶち殺された。このことを知っているキリスト教徒は実のことを言うとほとんどいない。

 

 そのキリストを「神の子」と崇める集団を、人は「キリスト教徒」という。その「神の子」を奉じる世界の政治的区分を、世は「キリスト教陣営」と呼ぶ。彼らが集団でもって、自分たちが奉じるキリストを誤解していることを、誰も指摘しない。

 

 後にキリストと呼ばれたナザレのイエスはただの一度も、自分は「この世の王だ」と言ったことはない。彼は一度もこの世の権力にあこがれたことはない。彼は一度も自分の名によって、敵を殺せといったことはない。しかし、キリスト教陣営の指導者は、専門の宗教家に至るまで、キリストを旗印に、この世の権力を追及する。

 

 今、「キリスト教陣営」の代表格のアメリカは、イスラエルの軍神をアメリカの軍神として心に抱いている。「敵」を見たら「撃ちてしやまむ」の精神で、愛のかけらのひとつもなく、「ゴッド ブレス アメリカ」と叫びながら。

 

 あのころ、私はマザーテレサ関係の本を読み漁り、ネット販売のDVDなどを買い込んで、マザーテレサの人となりを眺めている。あるネット上の人物と一緒に、見たかったのだが、どうも、これは無理だ、と判断した。扱い方の所為もあるのだが、この本はあまりにカトリックだ。

 

 これじゃあ、一般人に理解不可能だと思った。「一般人」という人種があるわけではないけれど、要するに、カトリックのことなど何も知らない、イエス様になんか、ある意味じゃ、反感を持っている、まして、カトリックの修道女の生活などに、まるで知識も興味もない人にとって、猫に犬語を話して聞かせるようなものだ。

 

 私は赤ん坊のときに、洗礼を授けられた、うんざりするほど、カトリックまみれの家庭に育ったカトリック信者で、どぎつく異端的なことを書いているわりには、反カトリック的じゃない。

 

 映画化された「マザーテレサ」を嫌って、足立区の図書館の本に紹介された彼女の実録、「マザーテレサと其の世界」というDVDを買い込んだ。しかも、楽天やアマゾンからでなく女子パウロ会から直接買った。この会はいい仕事をしているけれど、でも、やっぱりカトリック修道会の臭みの消えない解説の仕方で、マザーテレサの人となりを紹介していた。この臭みは、生姜でも擦り込まないと消えやしない。

 

 ただしこの本に書いてあることは、私には、よくわかる。よくうなずける。うっかりすると、私は彼女の世界に引きずり込まれて、涙まで出してしまいそうだ。DVDを見ていたら、マザーテレサの中に、イエス様を見ているみたいに、それはそれは現実感を伴って、信仰のほのおが、めらめらと立ち昇る。そんな感覚さえ味わえるDVDなのだ。

 

 でも、これはいくらなんでも、カトリック無関係の人には無理だ。無関係の人でも、この本に描かれている彼女本人を見たら、彼女の本体がひょっとしてイエス様ではないかと感じるだろうと思えるほど、「理解」はしなくても、「感動」するだろう。でも、これはDVDだ。DVDは客観的に理知的に批判的に、反感を持ってでも、見ることはできる。「理解」できないものは切り捨てることもできる。彼女のメッセージを自分の心に受け取るには、こんなカトリック的に構成されたDVDじゃだめだ。」なんていう感想を持った。

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 マザーテレサがものを語るとき、唇にそっと十字を切るという。自分が語るのでなく、後は聖霊に語るのを任せよう、という彼女の絶対的な信頼の表れなのだ。そのこと、私は自然に納得する。私はまさに聖霊が語っているに違いないと感じる「人間の言葉」を聞き取りながら生きてきたから。あれは、人間じゃない、あの人は聖霊の言葉を伝えるために、送られてきた人なのだ。そういう体験を自らし続けてきた人生だったから、私は、マザーテレサの其の一瞬の動作を見逃さなかったDVDの製作者の視点を、正しいと感じる心を持っている。

 

 しかし、一般人は、この動作を、あほらしいおまじないと取るだろう。残念だけど、そう見えることを、そうではないと、実証することはできない。それを捉えるのは、理性や知性でなくて、赤ん坊のときから、確実に捕らえていたある存在を感じる感性なのだから。そう。無意識状態で、洗礼を授けられた、赤ん坊のときから、である。

 

 私は知性や理性や人間の能力や人間の自由意志というものを極めて重んじるプロテスタントの人々が、カトリックの幼児洗礼というものを「無効」だとする理由を知っている。しかし、私はあの感性は無意識のときの幼児洗礼でないと、身につかないと感じている。自分の意思で信仰を持ったと考える、意思の信者の言葉を聴いて、いつも、私が感じるむなしさを払拭できない。

 

 ヤーヴェは人間の理性が捉えないと存在しないわけじゃない。ヤーヴェは理性や意思で持って、「理由をつけて」信仰しないと、捉えられない存在じゃない。むしろ、理性や知性や選択能力は、ヤーヴェに出会うための障害でさえある。其のことを、私は知っている。

 

 私にも、与えられた知性や理性や思索力がある。しかし、強固な信念というものは、知性や理性や、思索力で形成されたものではないようだと、私は感じている。

 

 マザーテレサがいつも見つめていたのは、自分でもなく、「貧民」と一括して名づけられたどうでもいい人間でもなかった。彼女が人間を見るとき、人間の中に存在するイエス様を見つめていた。裸で寒いイエス様を、飢えて路傍をさまようイエス様を、ライに犯されて手足がなくなり、目が見えなくなったイエス様を、親に捨てられてごみだめで泣く赤ん坊のイエス様を、それらの人々を「私」と呼んだイエス様を思い出しながら、彼女は、それらの「私」を拝しながら助けた。あの感性は、自分を無にした、イエス様に対する深い信頼がなければ、ありえない。