いろいろな宗教について(6)

 

11)ホスティアのこと

 これはもっとも、一般向きではない話。というか、これは駄目押しでもいい。これはとんでもなくカトリック的で、教会の内部で生活したことがなければ、誰もわかるまいとおもう話なので気分悪い方はすっ飛ばしてもいい。。

 

 それはホスティアのことだ。DVDの初めに、彼女の起こした会の終生誓願の儀式の模様が映し出される。清貧、貞潔、従順、に加えて、彼女の会は、世の最も貧しい人に「仕える」誓願をたてる。そこまでは、修道会のことだから、一般の人にわけがわからなくてもいい。 

 問題は、すべてのカトリック信者が、其のよりどころとしている、聖体拝領のこと。知らない人から見たら、ただのウエーハースみたいな食べ物に見える「聖体」と呼ぶものが、修道女達の魂を支え、苦悩の多い日常生活の活力となり、強固な精神を培うことができるのだ。

 其の聖体を毎日拝領することによって、世の最も貧しい人々に寄り添って、心に平和を保ちながら、人間的なあらゆる欲望を抑え、一生をイエス様に捧げきることができる、「力」を得ているのだ。

 そういう説明は、もともとカトリック信者の私にわかっても、カトリック以外の人にわからせることなど、私にはできない。というのは、この話は「理不尽」の粋をいっているから。

 懐疑主義者の私にとっても、何を疑い、何を否定し、何を排除しても、最後に残るものが、この「聖体の秘儀」と呼ばれるものだった。しかしそれが、あまりにも、不可解な信仰であるゆえに、万民が理解できる範囲を超えているゆえに、私は自分の中のこの事実を、ほとんどひた隠しにしてきた。自分の信念を、相手の見えないネットの中で語るとき、私はかなり饒舌である。しかし、私が一番大切にしているものは、触れられたくないのと、どうせ説明不可能で批判などに答えられないのとで、他人に語ることを避けていた。

 それが、このDVDでは、いとも簡単に、「当たり前のこと」として語られている。修道女達を支えるものは、毎日のこの聖体拝領だと、何の説明も無く、ぺらりと述べられて、そしてそのまま別の場面に、移行していく。

 自分が生きている、生かされている、イエス様の手足となっているという自覚は、信仰あるものにとって、何より強い「生きて働く理由」だろう。そして其の活力は、あの白いウエーハースの形状をしたパンによって支えられている。其のことを私は一人納得する。

 私は子供のとき、カトリックの家庭に生まれ育って、聖人伝と呼ばれる本を大量に読んだ。到底受け入れられない物語もあったが、私は、過去のローマ時代の迫害時代の多くの殉教者が、あの白い聖体を守って、死んでいった話が好きだった。

 

其のひとつ。

 迫害で捉えられ殺された神父さんが、捉えられる前に潜んで住んでいたというある地下室に、幽霊が出るといううわさがあった。其の幽霊の正体を調べようと、ある男が、こわごわ地下室に下りていった。そこで、男は其のうわさの幽霊に出会ってしまった。男は恐怖のあまり、胸に十字を切ったとき、其の幽霊は,安堵の顔でうなずいて、男をどこかに案内するようなしぐさを見せた。

 男は幽霊について地下室に下りていった。幽霊は、地下の床のある一角を指したのだが、其の床の一角には、とってのようなものがついていた。男は素手であったので、其の取っ手をいくら引っ張ってもあけることができなかった。

 男は、幽霊に、朝になったら、道具を持って、もう一度ここに来るから、今晩のところは、赦してくれと頼んだそうだ。幽霊は静かにうなずき、消えていった。

 

 朝になって、男は道具を携え、なかなか信じようとしない手伝い人を強引に引っ張ってきて、例の地下室に下り、夜中に幽霊が指し示した床の取っ手を見つけた。二人は力をあわせて、其の床の一角を持ち上げたところ、其の中に、カリス(金のコップ状の入れ物)に入った聖体が入っていた。

 幽霊の神父さんは、捉えられる前に、カリスに入れた聖体を、潜んでいた地下室の床の下に隠したのだ。彼が殺されて数世紀、幽霊となって、彼は聖体を守り続けた。

 

 私は1980年3月、ロメロ大司教がミサの最中に凶弾で倒れたとき、エルサルバドルの彼が住む場所から遠くないところに住んでいた。彼は大司教に選ばれたとき、カトリック国の最高指導者が住むにふさわしい「大司教館」というお城のような建物を与えられたが、それを拒否して、ある癌病院の一角にある6畳間ほどの広さしかないオフィスを執務室として、そこに寝起きすることを選んだ男だ。彼は、名誉ある地位にふんぞり返って、政府の高官と食事するよりも、虐げられた農民と、癌に苦しむ患者達とともに食事することを選んだ。 

 其のロメロ大司教が、政府軍に占拠され、銃弾の飛び交うカテドラルに、危険を冒して入っていった。彼は、聖櫃が銃撃によって打ち砕かれ、「聖体」がこぼれ落ちたのを見たため、一度出たカテドラルに「聖体」を拾い集めるために引き返したのだ。まったくの丸腰で、銃口の前を横切り、脅しの銃弾が発せられる中を、彼はかがんで白いホスチアを拾い集めていた。

 其の姿を私は映画化されたものではあるけれど、「ロメロ」という作品で見たとき、感動を禁じえなかった。それを一緒に見ていた男が、ばかばかしそうな顔をしたのを、私は気がついていたが、説明はできなかった。 信仰のないものにとって確かにばかばかしいから銃弾を浴びせたりするのだから。

 知らない人には、ただのウエーハ-スにしか見えないあのパンが、命の危険を冒しても守らなければいけないほど、それほど大切なものであることなど、どう伝えたらいいのだ?

 残念だな、と今回のマザーテレサのDVD を見て、やっぱり私は思った。製作者の姿勢はわかる。当然だとも思う。しかし、この、一番大切なことが、一般には、なんだかわからない。あれが無かったら、マザーテレサという人物が、生まれなかったといえるほど、大切なものなのだけど。 マザーテレサの精神をもうすこし万人向きな形で人に紹介したかった。