いろいろな宗教について(1)

 

「印哲少年KN君のこと」

1)印哲少年KN君のこと 

 

私は昔、結婚して国外に行くまで高校教師をやっていた。小中高一貫校だったが、規模の小さい個性的な学校で、寮があった所為で、日本中、世界中からの生徒を受け入れていた。決して進学校的なイメージのある学校ではない。あらゆる偏差値の、あらゆる階層の子供が来ていた。

 

そこで、KN君という一人の少年と出会った。少年は、そういう個性的な学校の中でさえ、突出して変人奇人といわれていた。私はその少年の担任になったことがない。彼の教科を担当した先生方が、口をそろえて彼の行動も言動も意味がわからない変な奴だと言っていた。

 

特に国語の教師は、彼の作文に頭を悩ましていた。「あの子の作文は何を言いたいのかさっぱり分からない」というのである。勢い、教師は彼の漢字力だの、文字の書き順だの、所定の読解力だのの点をつけただけで、それ以外は「評価不能」だったということで、当然のことながら良い成績は取れなかった。

 

私は彼が中学2年のとき1年間、国語を担当した。かれは「点数」という価値観から見れば、どの教師も言う通り、まさに「評価不能」であった。しかし私は彼の作文を読んだ時に、多分、彼は、「私が読んだことのない本を読んでいるぞ」と感じたのだ。

 

私は彼を呼び、面白い作文だけど、いろいろわからないことがある。君は一体どんな本を読んで、こういう作文を書くに至ったのか、と、聞いてみた。

 

彼は答えた。「バカヴァットギーターです。インテツです。」

 

「なぬ?」を私は思った。私は「インテツ」ということばに慣れていなかったから、それがインド哲学だということを理解するまで、数分かかった。

 

私には、彼が読んだという「バカヴァットギーター」には聞き覚えがあった。自分の書庫に、東洋思想集があって、孔子老子は読んだけれど、「バカヴァットギーター」が代表するインド哲学には触れていなかった。

 

そうか。読んでみよう。私は自分の家の書庫だけでなく、本屋に行って、手当たりしだいインド哲学の解説書を探した。インドの神話も民話も、ウパニシャット哲学も、そのときまとめて初めて触れた。その結果、私は彼の「作文」を理解した。まるで古代文字を解釈するように、私は彼の不思議な世界に入っていった。以後彼は私が彼の担当から外れた後も、自分の作文は担当の国語教師に見せないで、私に見せにくるようになった。

 

のちに彼が高校生になってから、彼は私が顧問を務める演劇部に入ってきて、私と彼との間に特別奇妙な関係ができた。

 

あるたまり場があった。私はもともと思想書が好きだったし、彼も私もお互いに、生きる社会から奇人扱いにされている人間として、こころゆくまでそのたまり場で、宗教、哲学の話をするようになった。

 

もう故人になられたが、当時職を失していた大学の先輩が、私の誘いに乗って同じ学校に勤めるようになって、彼女は自分のアパートをたまり場として提供していたのだ。

 

私は顧問に任命された時、全く演劇のことを知らなかった。なるひとが誰もいないから任命されたにすぎない。ところで、かのたまり場提供者は、昔仕事をしていた学校で演劇を専門的に指導していたので、私は彼女に演劇の指導を乞うた。発声練習から始って、舞台を歩いて観客を見まわすだけの度胸をつける訓練に至るまで、私は彼女から教えてもらった。

 

だから成り行き上、演劇部員の印哲少年を彼女はたまり場に受け入れることになった。そんなわけで彼女の「拠点」にいわゆる「変なの」ばかり集まって、飲み食いしながら、よく彼らの青春につきあった。

 

印哲少年の母親は、これもかなり変人で、どういうわけか私のことが好きだった。何を感じているのか、結婚のための日本脱出時に、わずかに私の人生に関わったこともあり、特に私は記憶していた。それで、私が内戦の末、命からがら日本に帰ってきたときに、連絡を取った唯一の元父兄である。帰国のどさくさで10年ばかり手紙も出さなかったが、初めて個展をやる時に、また彼女のことを思い出し、連絡をとった。なんだか、帰国時に懐かしがってくれたので、うれしかったのだ。

 

かの印哲少年はもう50歳になり、昔から好きだった古代遺跡の発掘をしながら、経済的には細々と、独身をとおして生きているそうである。やっぱり「常識的に」は育っていないらしい。そういう報告を聞いて私は、大いに納得した。

 

ある土曜日、その母親から電話がかかった。日曜日、うちに来るという。なんでも、二年前から気に入っていた絵があって、それを買いたいと言ってきた。

 

なんという「縁」なのだろう。そもそも彼女は、なぜ息子の担任でもなかった私に興味を持ち始め、実に38年間も「縁」を繋いでいるのだろう。なんだか不思議で仕方がない。さしたる理由もわからないから、たぶん「波長」の問題なのだろう。

 

今まで出会った人々の5%ぐらいかなあ、「波長が合う」というだけで私を受け入れ、一度受け入れたら決して忘れることはなかった。一緒に育った5人の兄弟姉妹は、たぶん「波長が合わない」という理由だろう、ただの一人も交流をつないでない。

 

昔の私は自分と「波長が合わなかった」95%との出会いを否定的に見てきた。憎んでいた時もあった。でもいまは、あの95%に鍛えられて、私は5%の珠玉の輝きを見る目を持つようになったと思っている。

 

その珠玉の一人が、今日、私の家に来る。地味な、生まれて一度も化粧などをしたこともない80歳の老女だ。2年前の個展で見た、私の一枚の絵を気に入ってくれた。彼女はその絵を、彼女のコレクションである名高い作家の絵を押しのけてまで、家に飾ってくれるそうだ。

 

そのことの意味…

 

2)「Merry Christmas と Happy Holiday 」

愛読している在米日本人のネッ友のブログに、多民族多宗教国家のアメリカのメディアでは、現在、クリスマスに「Merry Christmas」といわずに「Happy Holiday」というという趣旨のことが書いてあった。

 

で、さらりとそう書いてあっただけで、あまり深いことには触れていなかったが、私の心にいつまでも残る言葉だった。

 

多民族多宗教というお国がら、「メディア」という公共機関みたいなものは、四方八方に気配りが必要なのだろう。よいことだ。

 

日本は、あらゆる国のあらゆる宗教の祭りや行事を、宗教という骨を抜いて形骸だけを受け入れるお国柄だが、聖夜の音楽やサンタクロースのプレゼントや、ピカピカきらきらした飾りやらを、とうの宗教をもつ集団に対してはいかにも無神経にとりいれる。

 

私は一応キリスト教の一派に籍を置いているものだが、日本のこのクリスマス騒ぎが、反吐が出るほど嫌いで、この時期の繁華街を歩くことを避けている。12月26日になると、日本はさっさと金ピカの飾りを捨てて、門松、注連飾り、もういくつ寝るとお正月うぅ~~となる。私はそれを待って浅草を歩く。

 

「アーメン陀仏」とかいって楽しんでいる人物もいて、その言葉がどちらの宗教の徒をも傷つけていることを、言っている本人は知らない。だから、この近頃のアメリカのメディアの気づかいに、少し私は感じてしまった。いいことだ。この宗教抜きのお祭りは、余計な神経を使わなくて済む。信仰を持った人々だけ、それぞれのやり方で、各自正しいと考える儀式を執り行えばいい。

 

キリストを知らないで、「Merry Christmas」もない。日本のクリスマスは若い男女がホテルで楽しむ行事らしいし、それなら確かに「Happy Holiday」だ。

 

本来「お祭り」とは宗教に始まって、人々に浸透すれば「ただの馬鹿騒ぎ」に終わるものらしい。そしてそれはいかにも正しいことだ。特定の宗教は人々に垣根を作る。「ただの馬鹿騒ぎ」に垣根はない。垣根がないことの方が、宗教的にも正しい。

 

そもそもクリスマスだって、もともとイエスの誕生とは関係がない、異教徒の祭りで、キリスト教に改宗した異教徒の機嫌を取って教会側がとりいれたものだ。だいたいイエスがいつ生まれたかなんて、記録がないのだ。イエスが生きて活躍したからにはいつか生まれたんだろう、とりあえず、異教徒の祭りをそれにあてはめちまえ、というわけだった。

 

サンタクロースに至ると、もう、すでにおとぎ話の世界である。あれを子供に信じさせるの信じさせないのと言っているのは大人のゲームであって、「大人がウソつきである」という真理を子供に植え付ける意味では、初期の段階の人生経験として意義があるのみである。

 

私はHappy Holidayが日本にも根付けばいいと思う。だいたい平和の主であるキリストがキリスト教圏の軍神にされてしまって、イスラム圏を攻撃するようなことが「常識」になっている現状で、すべての宗教は一度崩壊する方がいいような気がする。

 

いつも言っているように、本来旧約聖書にでてくる「ヤーヴェ」とは、全宇宙の存在のもとであり、仏教でいう「法」である。自己執着に狂った集団が勝手な名前をつけて、俺だけが正しいと言い合って殺し合うような、そんなちっぽけな存在ではないのだ。

 

キリストは「律法を完成させるためにきた」というからには、「旧約の律法」は「未完成であったのだ。彼はイスラエル民族だけを救うと考えられていた「ヤーヴェ」を「全人類の父」と呼んだ。それをいまだに旧約の未完成の律法を引っ張り出してきて、俺が俺がといいはるなら、イエスが出てきた意味がない。おれだけが正しいとほざいているキリスト教徒は、口が裂けてもイエスの誕生を祝うな。

 

人はすべての垣根を取っ払って、何でもない「休日」を楽しめ。その方が、イエスの精神にかなっている。