いろいろな宗教について(7)

12)「独白につき、無視されたし」 

 

 私は無意識の状態で赤ん坊のときに洗礼授けられちゃったから、洗礼の前と後の状態の変化って知らない。大人になってから、「自分の意思」で洗礼を受けた人が、ものすごく得意そうに、「無意識洗礼」を馬鹿にして、まるで自分は光を見ちゃったみたいなことをいうけれど、そんなもんかね。とにかく、私は、そのお光様、見たことない。

 

 でも私は子供のとき、いつもいつも祈っていたなあ、といまさらながら不思議に思っている。光なんか見たことないけどね。何でだかわけがわからないのだけど、カトリックの学校からいろんな理由をつけて、追い出されても、教会の神父さんに、蛆虫を見るみたいな目つきで嫌悪感を持って見られても、教会学校のシスターに教理の教室からおんだされても、私はやっぱり祈っていた。

 大人になって、長い長いこと教会から離れていたこともあるけれど、それでもやっぱり祈っていた。其のころ、カトリックの世界って、けったくその悪いやつばかりいたからね。自分のことは、この際棚に上げるけれど、あそこはおっかない世界だった。だけどね、私はただの一瞬も、イエス様を疑ったことが無かったど。カトリックの組織や組織のメンバーや、組織の指導者は、怖いから近づかなかった。あれがイエス様と関係あるとは思っていなかったな。

 

というか、私は私で、個人的に、あの人たちとは別の、イエス様に頼っていなければ、やっていけない人生だったらしい。うっかりすると、自分で勝手に仕立て上げたイエス様なのかもしれない。信仰は、結局、イエス様と私の1対1の世界だから。・・といって自分を赦す。けけけ

 

でも、ちょっと疑問をいったり、ちょっと本心をいったりすると、すぐに頭に来る指導者ばかりで、近寄りがたい世界だったけれど、なぜか、教会から完全には離れなかったな。 

 私はご聖体信仰を、なんだか心から信じて持っていた。今でももっているけれど、ご聖体が目的で、私は教会から離れられないらしい。

 もっと大きくなってから思ったもんだ。私はあの指導者たちに帰依しているわけではない。自分だけが正しいと思って、矛盾だらけのおかしな「教え」を子供に植え付けて洗脳しようとする、あの連中に帰依しているわけじゃない。私が帰依している相手はイエス様であって、人間の権威者じゃない。生意気だったんだね。ま、今でも変わらないけど。

 

 私はカトリック教会に在籍する。カトリックは私にとって、「戸籍」みたいなもんだ。プロテスタントが何を言おうと、過去の西洋のカトリックが何をしでかそうと、私はカトリック教会を通じて、イエス様に出会った。

 

 私は聖書に記述してある言葉が、すでに異国語の日本語訳であろうと、全部言葉どおりに鵜呑みにしなければならなくて、其の文字の一字一句も変えてもいけない、比ゆ表現の解釈をしてもいけない、聖書そのものが真理なのだ、アダムとイヴは蛇にだまされてりんごを食った罪で、子孫の人間が彼らの罪をDNA として受け継いでいるのだとか、其の蛇を処女マリアがふんづけたのだとか、なんていうことを、本気で正気で信じているグループより、場数を踏んできたカトリックのほうがましだと思っている。

 

 何しろ、カトリックは、玉石混交で、いろいろなきちがいの存在を赦している。マザーテレサみたいな極端にイエス様に取り付かれたみたいな人もいれば、どこかでどんぱち殺しあっている人もいる。ミサ中に献金袋が回ってくると、献金袋が自分の前を通過するまで、気づかないふりして天井を見上げて祈りまくったりする御仁もいれば、人が苦しんでいるときに、こっそりやってきて、いい目つきをして私を見て、何も言わずにそのまま帰っていったりする、心の優しいばあさんもいる。なにしろ私みたいな異常なやつもいていいらしい。何を言っても、異端だ異端だと大騒ぎして、火あぶりにしたりしないからね。

まあ、500年も前なら、私は火あぶりになったと思うけれど。いい時代に生まれたから、私はまだ、カトリック教会に籍を置く。

なお、いろいろな意味で、キリスト教関係に信仰の一種を持っているかたがた、私を相手にしなくていいよ。どうせ、誰から見ても、私は異端でね、ばい菌持っているから危ないよ。

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13)「独白につき無視されたし」(2) 

 

 昨日、教会に行ってきた。すべての儀式の進行を、いつもの通り、こなしてきた。もうすぐ、復活祭。説教ではラザロの復活の説明をしていた。9歳の時に亡くなった父が、死者のうちから復活したという意味で、一念発起してカトリックに改宗した時、自分の霊名をラザロとしたという話を覚えている。だから、ラザロは私にとって、懐かしい名前だ。

 私は復活祭が一年の中で一番大切にしている。まあ、変な言い方かな。まず一番気に入っているのは、日本人が大騒ぎしないから^^。

 クリスマスは真っ赤でひげ面のデブ爺さんにのっとられちまったし、ああいう、大金持ちの子供が、もっと物を貰うのが常識になったお祭り騒ぎが、生まれてから死ぬまで一生涯迫害を受けたイエスの生涯と関係あるとは、到底思えないんでね。日本のクリスマスは、げろが出る。 

 高尾利数という名前の学者かな、「イエスとは何か」という本を書いていて、其の中に、自分が翻訳した、ある女性の研究者の死海文書に関する本を紹介していた。彼のイエス扱いはかなり乱暴なんだけど、時々いいことも言っているから。 

 しかし、その本は、私にしては珍しく、うんざりして途中で投げ出してしまった。なにしろ、イエスの奇跡も、処女の生まれも、復活も、すべて其の時代に使われた言葉の意味することを解明することによって、宗教でもなんでもない、どうでもいい出来事みたいに謎解きができるというのだ。イエスはヨゼフとマリアの子として正式な結婚前に、「厩と呼ばれる普通の家」の中で生まれ、半殺しのまま、「墓と呼ばれる」場所に放置され、なんだか自力で蘇生したんだそうだ。 

 イエスはただの、「そこいらにいるボーっとした人間」で、いてもいなくてもいいような人物として書かれている。面白いのかね、こんなこと、書くの。それが神の子として世界中に広がった経緯がいまいちわからない。私も「そこいらにいるぼーっとした人間」だけど、物の弾みで女神になったら面白いね。 

 いくらなんでも、私は他宗のことだって、釈迦が、いてもいなくてもいい、どうでもいい人物だとは思わないよ。 

 2000年以上もの間、釈迦を慕い、イエスを信じて、自分の人生を見つめてきた世界中の人々は、ただの馬鹿っていうことになるモンね。自分はともかく、他人の心の糧にならないような本を書いたって、当の自分の存在の意味もないんじゃないの?

 

ところで、別のことを書きたくて、これ始めたんだけど初めからそれてしまった。

 

 私はまだ洗礼にこだわっている。聖書には、イエス自身がヨハネから洗礼を受けた話が載っているけれど、キリスト教の成立の話も、キリスト教入信の条件として、または、救いの条件としての洗礼の話も載っていない。

 

 弟子達が諸国にイエスの言葉を伝えようという決意をするほど「信仰」らしきものを心に感じた瞬間は、それは「洗礼」ではなくて、「聖霊降臨」とカトリックでは呼んでいる出来事だ。私はこの記述をものすごく重要なことと見ている。後で、キリスト教団が結成されてから規定された「洗礼」という、「人間が執り行う儀式」よりも、最重要の出来事だと感じている。

 

 聖霊降臨によって、弱腰だった弟子達は強められ、彼らの「言葉」に霊力が備わり、迫害も何も、あらゆる身の危険を恐れずに、イエスの言葉をすべての人類に伝えようという使命感が湧いたのだ。それまでは、弟子達は官憲を恐れて、ぶるぶる震えながら、家の中に隠れていた、と聖書は記述している。

 

 腰抜けが、迫害も辞さぬ強烈な使命感を抱くに至った其の「変化」に人間側からの、いかなる「意思」もなく、いかなる「働きかけ」もなく、完全に一方的に、上からの意思があったという、そういう記録になっている。腰抜けの彼らを強めたもの、それは彼らの、人間側からのちっぽけな「意思」などではない。

 

 ましていわんや、「私は神様を信じてあげます」などという、傲慢な「信仰表明」ではない。「信仰」とは与えられるものであって、人間が儀式によって「獲得」するものなどではないのだ。

 

 そして重要なことは、使命が与えられたのは、「腰抜けたち」であり、意志強固な権力の保持者、学歴や門地出自で身を固めた社会的な強者、ミッションスクールが好きな上流階級の善男善女ではないということ。

 

 私はマザーテレサの実録を収めたDVDを見ても、あの弱弱しい、しわくちゃの小さなばあさんに、あんな強烈な使命感を持たせたのは、そういう「上からの意思」としか思えない。洗礼などという、受けたら天国に行くなどと安心している「免罪符」と大して変わらない儀式ではなく、彼女は「聖霊降臨」を受けたのだ。

 

彼女の側に「意思」があったとしたら、それは「従うための意思」だけだったろう。

 

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追加

(ある人物のコメントに対するコメント)

 

★私の「話」は両刃の刃ですよ。

 

 私は最近、マザーテレサに興味を持っています。DVDを見、本を読み、研究しています。

 

 そこから始まったのだけど、彼女は、自分はカトリックの家庭に生まれ育ち、当然「幼児洗礼」を受けたのだけれど、自分が助けた人々に、洗礼など授けなかった。「いらないから授けなかった」のではなくて、「救い」が洗礼から来るのでなく、「愛」から来るものだということを、彼女は確信していたからだと、私は思います。あくまでも「私」はね。

 

 私自身は、自分が幼児洗礼を無意思のときに授けられたことを、幸福に思っています。救いを自分の意思で獲得したなどと言う錯覚を抱かなくてすむからです。(つまり、洗礼を全面否定しているわけではない)

 

 そういう錯覚によって、人は人を差別します。お前は洗礼を受けてないから、地獄行きだとか、死にそうな人にあわてて洗礼の水をかけないと、天国にいけないとか、ラテンアメリカの原住民が遭遇した、悲惨な状況も、「洗礼」による差別から来るものなのです。私はそういうことに対して疑問を持っているから、こういう記述をするので、洗礼はないほうがいいとは、いっていませんので、誤解のなきよう。 (入信のための、あくまで、人としての社会への窓口として、洗礼を考えている。)

 

 それから、「聖霊」とは、別個に存在するものではなくて、あくまでヤーヴェの分身ですよ。ある強烈な働きかけによって、人間が覚醒し、行動に移し、何かを成し遂げるとき、「聖霊の働き」という言葉で、一応納得したいので、表現しているのですがね。

 

 別の考えもありますよ。私は自分の人生体験だけから、ものを言っているだけだから。

 

またまた追加

 

☆「洗礼を受けていないから地獄行きだ」→カトリックの小学校にいたときに、信者ではない生徒の妹が、生まれてすぐに死んだという報告を受けたとき、その子に対して、シスターが言った言葉。

 

☆「ラテンアメリカの原住民が遭遇した悲惨な状況」→かつて、大航海時代に、スペインが派遣したカトリックの軍人達が、原住民の女性に対して強姦し、妊娠した女性の腹を割いて赤ん坊を引っ張り出して洗礼を授けるという、蛮行を繰り返した。原住民側の記録による。筆者はこの歴史をエルサルバドル人との国際結婚をして現地に暮らしているときに聞いた。今でも多くの、「かつて意味も知らずに洗礼を授けられた人々」は、この事実を忘れていない。そして、ラテンアメリカは、西欧の侵攻以来、かつて、「平和」になったことがない。

 

(なお、スペインは100%カトリックの洗礼を受けていたから、泥棒でも人殺しでも、信仰とは何かを何も知らなくても、「信者」だった。別にローマ教皇が、率先してやらせたのではなくても、「信者」が行った行動は、「カトリックの蛮行」として、世界の被害者の記憶に残る。)

 

☆「救いに条件はない」「イエス様は救いの条件をもうけなかった」と私が何度でもいうのは、「洗礼の意味」を「救いの条件」として理解することが、条件を満たさないものに対して、果てしない差別をするための潜在意識となっていることに対する警告である。あくまでも、「イエス様の唯一のおきては愛であり」「イエス様の主張する唯一の罪は、愛さないこと」である。

 

☆イエス様の「愛のおきて」は聖書を読めば読むほど、不可能に近く崇高である。

 

だから、「愛のおきて」を本気になって実行に移せる人物は、一世紀に一人くらいしか出ない。

 

 私の個人的な体験では、ヴェネズエラに一人の修道女がいたが、世界的に記憶されている人物は、アッシジのフランシスコと、マザーテレサ

 

 地域的であまり知られていないが、エルサルバドルのロメロ大司教は、私の人生観をひっくり返した人物だ。この人の人生を思うとき、私はいまでも涙が燦然と流れるのを禁じえない。ただし、この方はのちにローマによって聖人となった。

 

 「天国」とは「場所」ではない。洗礼を受けて死んでから、浦島太郎が行ったみたいな国に行ける訳じゃない。洗礼証明書という免罪符を持ったら、亀が竜宮城に運んでくれるわけじゃない。

 

 10歳にも満たない子供に、お前の妹は洗礼を受けていないから地獄に行くなどと言って傷つけるやつは洗礼を100回受けても、修道院に入って、祈り三昧で老後の安定を得られても、イエス様のおきてにそむいている。竜宮城どころか、パチンコ屋にもいけない。

 

 3)

 数週間前、私は自分の子供を含む、二人の子供を殺した角で、裁判にかけられている畠山被告について、ミクシに意見を書いた。「死刑求刑が気に入らない」、と一言言っただけだけど、そのときに、100通近い意見が殺到し、ほとんどが、私に対する罵倒であった。

 

 そのときに一人の人物が、「キリストは自分を信じなければ地獄行きだ」といったじゃねーか、という意見を述べて、食い下がってきたけれど、それが聖書のどの文句を槍玉に挙げているのか、わかってはいたが、罵詈雑言が収まるまでまとうと思って、自分の意見は言わなかった。

 

「自分を信じなければ地獄行きだ」とか「洗礼を受けなければ地獄行きだ」というのは、それぞれの聖書の読者の解釈であって、そういう解釈が赦されるのなら、私も私の解釈をそのうち提示しようと思っていた。

 

 確かに聖書には、「私を通ってしか天国に入れない」と、イエスの言葉として、書かれてはいる。これは、日本語訳された聖書の言葉なので、日本語の意味だけでものを考え、聖書のほかの箇所を無視すれば、確かにそういう解釈もありうる。「洗礼を受けてキリスト教徒にならなければ天国にいけない」という意味に取られてもしかたがない。

 

 しかしそういう解釈をする人も、「天国」の意味、「私」の意味、さらに「私を通る」の意味を、自分の心で考える前に、受け入れることを遮断してしまっているので、自分の解釈にこだわり、キリスト教徒とは、自己中心的な排他的な集団だと信じてしまうのだ。確かに多くのキリスト教徒が、自己中心的で排他的だから、それも無理はない。

 

 しかし、それは大いなる誤解である。何度でも繰り返すように、イエス様は、ただの一度も、洗礼を受けることを条件に、人間を救うとは言っていない。イエス様が結成したわけでもない「キリスト教集団」でなければ、天国に入れないなどとは一言も言ってない。

 

 「通らねばならない私」とは、「着る物もなく路傍に捨てられた私」であり、「飢えてやせ衰えてもなお、誰にも省みられない私」であり、「さまよっているときに宿を与えられなかった私」であり、「誰にも省みられず、苦難の人生を歩んだ結果、犯罪を犯し、牢獄につながれた私」である。

 

 その「私」であるイエス様に、「着るものを着せ」「食べ物を与え」「牢を訪れて慰め」「宿を与えて看病する」、そういうことをすることが、自己中心的正義感を振りかざす人々、正義感ゆえに、罪を犯したものは殺されるべきだといって、「罪の女をなぶり殺しにする」人々、つまり「現代の律法主義者たち」からは、迫害を受けるだろう。しかし、その「愛」の十字架を背負って、自分についてこいと、イエスは言ったのであって、それは「自分を信じなければ、地獄行きだ」という解釈とは、まったく似ても似つかない精神なのだ。 

 

「その十字架を背負ってこい、そうすれば、天国はあなたのものだ」とイエス様は言った。つまり、自己犠牲を伴う究極の「愛」によって永遠の心の安寧が得られる、といったのだ。

 

 畠山被告の死刑求刑について、私が一言「気に入らない」と言っただけで、「この国は法治国家だから、宗教を持ち出すのが間違っている」といい、聖書まで持ち出して、私に罵詈雑言を浴びせた約100人ほどの人々は、現代の「律法学者」であり、まじめな常識人であり、正義感にあふれる人々であり、社会人として、多分、他人に迷惑をかけない「不特定多数」の善男善女だろう。

 

 しかし、イエスの言う「愛」は律法も、常識も、正義感も、社会通念も超えている。

 

 私の目は畠山被告の前に立ちふさがって、石を持った群集に向かって「お前らのうち、罪がないやつだけが、この女を死刑にせよ」というイエスの眼力鋭くにらみつける仁王のような姿が、確実に「観える」。彼は、畠山被告に、洗礼を受けてこい、懺悔をしてこい、そうすれば生物的命を助けてやる、などという、ちっぽけなことは言わないだろう。彼が、立ち去る群衆を見送ってから、畠山被告の魂を、その目でもって射抜いたときに、彼女は「心眼を開いたアングリマーラ」となるだろう。